狼涙 第2話「推理開始」

何かの音で目が覚めた。
時計を見る。午前2時14分。
俗に言う草木も眠る丑三つ時。
矢葺町商店街の丁度中間に位置する深沖精肉店の2階、寝室として使われている6畳の和室。
起き上がり闇の中でうっすらと家具の凹凸を見渡していく。
時計の秒刻みの僅かな音と、隣で寝ている夫の寝息以外に全くの静寂と言って良い世界。
深沖祐子は夫を起こさないよう、明かりをつけず室内を歩き階段を降りていく。

音がした勝手口には、店頭に並べる精肉を貯蔵しておく大きな冷蔵庫が置いてある。
まさかとは思うが、鍵の閉め忘れなどがないかと確認に向かった。
深沖家には、夫の他に中学生の一人息子の康太が居る。
食べ盛りの康太が自分たちが寝てから冷蔵庫の中を漁り、鍵を閉め忘れたのだろうか。
そんな事を考えながら、勝手口の戸を開ける。
正面にでかでかと置かれた冷蔵庫のドアから冷たい空気が漏れていた。
「やっぱり閉め忘れてたわ」と祐子は玄関の横に常備されている鍵を手に取り、冷蔵庫の鍵穴に差し込んだ。
その瞬間、何者かによって物凄い力で庫内からドアを開けられた。
祐子はその勢いに負け、バランスを崩して尻餅をつく。
庫内から現れた人物は月明かりに照らし出され、ギラギラとした瞳を祐子に向けた。

「ひっ」

捕食者の色を浮かべた攻撃的な双眸に見下ろされ、祐子は小さく悲鳴を上げた。
男は、一歩祐子に近づく。
祐子は逃げる事も忘れ、恐怖で支配される。声を出す事さえ出来ずに男を見上げる事しか出来ない。
男は祐子の上に馬乗りになり、拳を振り下ろした。
それが、祐子が見た最後の光景となった。









愛莉は、眩しさで目を覚ました。
カーテンの隙間から指す日差しはキラキラと輝いており、その光が優しく愛莉を照らしている。
眩しさに両目を細めがら、ベッドサイドに備え付けられている机の上の目覚まし時計を手に取り、時間を確認する。
午前7時6分。
平日の朝起きるには、少し遅いその時間に吃驚しつつ、急いで寝床から抜け出す。
昨日はあの後食事を取り、風呂に入ったら直ぐに眠ってしまった。
肉体的というよりは精神的に疲れていたのかな、と思いながら身支度を済ませ、階段を駆け下り、リビング手前にあるドアを開けて洗面台を占拠する。
顔を洗い、歯を磨き、髪を丁寧にブローしてからリビングへと向かった。
既に父親の孝一朗と兄の誠志朗はテーブルに腰掛けており、二人ともブラックコーヒーを啜っている。
おはよう、と二人に声を掛け自分の席に着く。
孝一朗はあぁ、と小さく返事をして開いたばかりの新聞紙に目を落とす。
誠志朗は、にっこりと微笑んでおはよう、と返してくれた。

「そういえば、深沖さん所明日には通夜、やるそうだぞ」

孝一朗は新聞から目を離してキッチンに居る母親の佳代に言った。
佳代は、エプロンで手を拭いながらリビングへと入ってきた。

「準備しておきますね」

孝一朗にそう言って、佳代は我が子二人に目を向けた。

「貴方たちもきちんと行くのよ」
「うん」
「解りました」

誠志朗は、何故か両親に対して敬語を使う。
愛莉は小さい頃はそれが不思議でならなかったが今となっては、これが当たり前なので気にする事もなくなった。
佳代は、全員分の朝食を運び終え、自分も席に着く。
テレビには昨日と同じように商店街の様子が映し出されていた。
被害者の深沖祐子は、一昨日28日の午前5時21分に夫である深沖真治によって発見された。
真治が発見した時には祐子は既に事切れており、辺りには大量の血痕が残されていたらしい。
未だに犯人の足取りは掴めず、殺された経緯も解らないまま、キャスターは次のニュースを事務的に読み上げていった。
愛莉は、時間ギリギリまでテレビを食い入るように見つめ、カップに残った珈琲を胃に流し込んで席を立った。




学校に着くと、クラスは報道陣の話題で持ちきりだった。
クラスメイトたちのはしゃぐ姿を横目に愛莉は自分の席へと着いた。
斜め前の席の市瀬は、興味が無いと言った感じで机に顔をつけて寝息をたてている。
鞄の中身を机に閉まっていると、声を掛けられた。

「愛莉、おはよ!」
「千明おはよー」

愛莉に声を掛けてきたのはクラスメイトの佐野千明だ。
クラスの中では愛莉と一番仲が良かった。
入学式当日に一番初めに話しかけてきてくれたのが千明だった。
それからはずっと彼女とつるんでいる。

「商店街の方、テレビ取材来てるの知ってる?」
「あぁ、うん……深沖さんとこだよね」

千明は小声で話し始める。
それに答えるようにして、愛莉も声のボリュームを落とした。

「もうどこのクラスもその話で持ちきりだよ。嫌になっちゃう!」
「何かあったの?」
「だって、皆他人事なんだよ? あたしは祐子さんの事知ってるし仲良かったから、なんか凄いショックだな……」
「うん、私も……」

しんみりとなると同時に、始業のチャイムが頭上から響いた。
千明はじゃあね、と言い急いで自分の席へと戻っていった。
それからは、ただ淡々と授業をこなしていく。
途中、幾度かうとうととしてしまったがなんとか乗り切った。
放課後になると市瀬は、さっさと帰ろうとする。
それを引き止めたのは愛莉だった。

「市瀬くん、今から時間あるかな?」
「……いいけど」
「よかった! ほら、昨日取材させてって言ったでしょ?」
「あぁ……でも、なんで俺?」
「んー、人気があるからじゃないかな?」
「そうなのか?」

本人は解っていないようだったが、実際のところ、市瀬の人気は物凄かった。
今日も休憩中に、何人もの女生徒が市瀬を一目見ようと教室前に集まっていたくらいだ。
市瀬本人はほとんど寝ているか、ぼぉっとしているかのどちらかなので気付かないのも仕方ない。
愛莉は彼の何がそこまで人気なのか解らず、一度千明に相談した事があった。
逆に驚かれて力説されてしまったが。

「あんたの目は節穴なの!? あんなにかっこいい子早々いないよ!」

千明が言うにはそうらしい。
整った顔立ちは、芸能人を思わせる。
身長も高く、引き締まった体つきで、見るからにスポーツ万能。
実際、体育の授業では彼のずば抜けた運動神経の良さが人目を轢き付けている。
外見の良さは勿論だが、あまり喋らないのも女生徒からしたらクールでかっこいい、と高評価だった。愛莉自身、誰かの外見を気にした事などなかった為、千明の話を聞く間もぽかんとしていた。
千明はそんな愛莉を見て、よく頭を抱えるのだった。

「まぁ、質問にいくつか答えてもらうだけだから、直ぐ終わるよ!」
「解った」

二人は、新聞部の部室へと向かった。
部室には沢山の本棚と、本棚に収まりきらないファイルが無造作に床や机、椅子の上に積み上げられていた。

「き、汚くてごめんね。整理しなくちゃいけないんだけどなぁ……」
「別に気にしない」

ごそごそと資料の入ったファイルを隅に避けて、二人分の座るスペースを作る。
そのスペースに座り、愛莉はこの部室唯一の文明機器であるノートパソコンの電源を入れた。
新聞部には、部費はほとんどと言って良いほど支給されない。
すべて自分たちで作成し、毎月1枚の校内新聞を発行している。
今日は来月分の原稿を作成する為、市瀬にも協力を要請した。
Wordで作成された原稿を見ながら市瀬に質問をし、市瀬がそれに答え、空欄に文章を埋めていくという作業を繰り返す。
30分程度でそれは終了した。

「お疲れ様! 助かったよーありがとう!」
「あぁ」

市瀬は、ちらりと壁に掛けられた時計に目を向ける。
時刻は17時39分。
窓から外を見ると、既に太陽は沈みかけ、紫色の景色が視界一杯に広がった。

「……お前、これから帰るのか?」
「ううん、ちょっと寄る所があって……」
「……まさか、あの精肉店か?」
「あはは、やっぱり解っちゃう? 気になっちゃって」
「俺も着いてく」
「え、いいよいいよ! 私一人で首突っ込んじゃってるだけだし」
「……危ないだろ」

ぼそっと呟いて市瀬は乱暴に椅子から立ち上がり、鞄を持つ。
愛莉は急いで先程出来上がった原稿を保存し、パソコンをシャットダウンさせた。




矢葺町商店街はいつもにも増して閑散としていた。
報道陣は、もう帰ってしまったのだろうか、ほとんど人はいなかった。
愛莉と市瀬が商店街に着く頃には、18時を回っていた。

「一足遅かったかぁ……」
「どうする?」
「現場だけでも見ておきたいかなぁ」

二人は目的の深沖精肉店へと到着する。
閉店を印すシャッターがぴっちりと閉まっており、中を伺う事は不可能だ。
精肉店の脇にある細い路地を抜けると、深沖家の正面玄関兼勝手口が姿を現す。
脇にあるボタンを押そうとして、声を掛けられた。

「愛莉?」
「お兄ちゃん…?」

そこには、背広姿の誠志朗の姿があった。

「どうして此処に……」
「愛莉こそ……そっちの子は?」

誠志朗は、市瀬を見やる。

「クラスメイトの市瀬君。部活の用事で付き合ってもらったんだけど、帰りが遅くなって、着いてきてもらったの」
「……ども、市瀬久狼です」
「こんばんは、愛莉の兄の誠志朗です」
「お兄ちゃん仕事は?」

一頻り、挨拶を終えて愛莉は誠志朗に聞く。
少し困った顔をしながら、誠志朗は口を開いた。

「まぁ、これも仕事の延長上なんだよね」
「? ふーん……」
「じゃあ、俺これで失礼します」
「あ……市瀬君、つき合わせちゃってごめんね」
「いや……じゃあ、またな」
「うん。ばいばい」

市瀬の後姿を見送りながら、愛莉はまずい事になったと思った。

「で、愛莉何してたんだ?」
「いや、だから市瀬君に送ってもらって……」
「じゃなくて、どうしてお前が深沖さんの家の前に居るんだ?」
「いや、その……気になっちゃって……」
「危ないだろっ! いつも言ってるだろ! 危ない事に直ぐ首突っ込むなって!」
「ご、ごめんなさい……」

いつも、誠志朗は本気で愛莉の事を叱る。
それが本当に申し訳なくなってしまうのだが、やはり好奇心に勝つ術を愛莉は知り得なかった。

「帰るぞ」
「う、うん……あの、お兄ちゃんの用事はいいの?」
「気が変わった。お前を送ってからでも来れるしな」
「あ、ずるい!」
「何か言ったか?」
「……いえ、何も……」

怒った時の兄の笑顔ほど怖いものは無い、と愛莉は思った。









市瀬は小さな公園のベンチに座っていた。
意味も無く、足元にあった小石を足で弄ぶ。

「一颯……誠志朗、か……」

その名は、先程会ったばかりの男の名前だった。
誠志朗は自分の事を見ても別段驚く様子はなかった。
向こうはこちらに気がついていないのだろう。

「見つけた……」

ぼそりと呟いて、弄んでいた石ころを蹴り上げた。
それは、高々と宙を舞い、また砂利の中へと紛れ込んでしまった。
市瀬は公園を背にし、歩き出す。向かう先は彼自身にしか知り得ない……。