狼涙 第3話「椿」

少女は強く自身の唇を噛んだ。
積もりに積もった怒りは彼女の中で確実に行き場を無くしていた。
何故、あの女ばかり……!
身に纏っている着物の裾を強く握りしめ、やり場のない怒りに更に腹を立てる。
こんなのは不公平ではないか。

少女はとうとう動き出した。
自分でも何をしようとしているのか解らなかったが、もう身を任せるしかなかった。
赤い草履がカランと音を立てた。
少女は歩き出す。
早朝の霧の中、その後ろ姿は頼りなさげだ。









夕食を終え、自室に戻ると愛莉は決心した。
兄の誠志朗は今日必ず行動を起こす。
兄の後を尾行しよう、と決心したのだった。
まずは、準備が必要だった。兄の部屋は愛莉の直ぐ隣だ。
兄が動き出すのを待つ間、愛莉は動きやすい服装に着替え、ニット帽を深く被った。
端から見れば、その服装だけで女の子だと断定するのは難しい。
これならば兄にばれないだろう。
午前2時57分、誠志朗の部屋のドアが開く音がした。
そして、ゆっくりと階段を降りる足音。
愛莉はドアに耳を貼り付け、その音を逃さぬよう懸命に聞き耳を立てる。
玄関のドアが開き、直ぐに閉まる。
それを合図に愛莉も階段を降り、玄関へと向かった。
誠志朗の行き場所は予想が出来ていた。
絶対に、深沖精肉店だ。
兄の姿がない事を確認し、愛莉は商店街へと足を進めた。
夜の町は、静寂の世界に包まれていた。
世界に自分一人だけのような気がして、愛莉は少し怖くなる。
極力周りは見ずに、目の前だけを見て足を動かす。
途中、小さな公園に差し掛かった。
微かに聞こえた声に思わず声を上げそうになったが何とか飲み込み、草むらの陰に隠れた。
聞き覚えのある声が、ゆっくりと話し始める。

「遅すぎるぞ」

彼は、この公園でずっと相手を待っていたかの様な口ぶりでそう言った。
しかし、もう一人は可笑しそうにその言葉を否定する。

「一緒に此処へ来たばかりだろ?」

もう一人の人物は、愛莉の知らない人だった。
此処からでは、姿を確認するのは困難だが、少年のように少し高く、けれど青年のような落ち着いたその声に聞き覚えはなかった。

「で、オレを呼んだって事は結構ピンチ?」
「いや……全然」

詰まらなさそうに答えたその声は、昨日愛莉を送ってくれた市瀬の声そのものだった。
何故、こんな時間に市瀬が此処にいるのだろう、一緒にいる男の人は誰なんだろう、そんな疑問がぐるぐると愛莉の脳裏を巡る。
彼らに夢中になっていた所為で、背後に気を配る事を忘れていた。
肩を掴まれて、心臓が口から飛び出しそうな感覚になる。

「馬鹿、こんな所で何してるんだ!」

そこには誠志朗が居た。
愛莉はサーッと血の気が引くのを感じた。
神様、どうして貴方は私を見放したのですか。

市瀬たちに気付かれる事なく、自宅へと戻ってきた。
帰るまでの道、二人は終始無言だった。
誠志朗は乱暴に靴を脱ぎ捨て、愛莉が見えていないかのようにさっさと二階へと上がってしまう。
愛莉はそれに続くようにして自分も二階へと向かう。
心は折れそうだった。
兄の後ろに続き、自分の部屋へと行かずに誠志朗の部屋に入る。
誠志朗の部屋はシックにまとめてあり、あまり物がない。
愛莉を椅子に誘導し、自分はベッドに腰掛ける。

「それで? あんな所で何をしてたんだ?」

苛立った兄の声は、愛莉の心に突き刺さった。
なかなか話せずにいると誠志朗は小さくため息を漏らし、立ち上がり愛莉の側で立ち止まる。

「俺は、愛莉に危険な事はして欲しくないから言ってる、解るか?」

こくり、と縦に首を振る。
じゃあ何故、と誠志朗は愛莉に問う。
暫くしてから、ぽつりぽつりと愛莉は話し出した。

「お兄ちゃんが危ないって言うのも解る、けど私はこの町で何が起こってるのか知りたいの。だって怖いじゃない。解らないのが、怖いの……」
「……俺は、お前にこの事件には首を突っ込んで欲しくない。この事件だけでいい。他の事なら少しの事なら目を瞑る。だがこれだけはやめてくれ」
「どうして? どうして私は駄目でお兄ちゃんはいいの?」
「それは……女性ばかり狙われてるだろ」

誠志朗は、自身の爪を見つめながらそう言った。
愛莉は知っていた、それが誠志朗が嘘をつく時にする仕草だと。
誠志朗は愛莉の言葉を遮るようにして言う。

「もう遅いし、兎に角休もう。明日は深沖さんの所へ行くんだろ」
「……うん」

煮え切らないまま、愛莉は誠志朗の部屋を後にした。




翌日、制服に身を包んだ愛莉は、深沖祐子の通夜に来ていた。
夫の深沖真治は自分をしっかり保とうと必死だった。
うっすらと涙を浮かべてはいたが、参列した者ひとりひとりに挨拶をして回っていた。
息子の康太は、しゅんと小さくなって部屋の隅で肩を震わせていた。
ふと目をやると、市瀬の姿を見付けた。
彼もこの場所へと来ていたようだ。
線香を供え終えて、こちらへ近付いてきた。

「一颯も来てたのか」
「うん……お世話になったから……」
「そうか……」

黙り込んでしまう。
すると何処からか話し声が聞こえた。

「検視の結果、酷かったみたいよ……」

ぼそぼそと聞こえてきた話し声は、耳を疑う物だった。
常識がないにも程がある。
しかし、愛莉はその内容を聞いて驚愕する。

「何か、噛み付かれた後があったみたいなんだけど、それがどうも人間のものじゃなないみたいなのよ」
「まぁ……」

愛莉はその場に居られなくなり、真治に挨拶をして自宅へと帰った。
心臓はバクバクと鳴り響いている。
人間じゃない? じゃあ何だと言うのだ。
気がつくと、額にぐっしょりと汗を掻いていた。
愛莉はそれを拭い、顔を洗うために洗面所へと向かう。
頭はパニック寸前だった。
けれど、理性が叫ぶ。ありえない、と。
顔を洗うと、少しは気分が楽になった。
そのまま、風呂に入るため愛莉は制服を脱ぎ捨てた。




次の日は、学校がある為葬式に出る事は出来なかった。
愛莉は重い足取りで教室のドアを跨ぐ。
自分以外はいつもと変わらずそこにあって、何だかおかしいなと思った。
先に来ていた千明に挨拶をして席に着く。
千明もどこか元気がなく見えた。
机の中に教科書を仕舞っていたら、廊下から足音が聞こえた。
一人のクラスメイトが息を切らして教室に駆け込んでくる。
何事かと愛莉もその生徒を凝視する。

「ヤバイって! マジ、可愛すぎるんですけど!!」

息を切らしながらそれだけを言うと、彼女は自分たちのグループの中へと溶け込んでいき、今見てきた事実を語り始めた。
どうやら転校生がやってきた、という内容らしい。
この学校じゃ転校生は珍しく、注目の的になった。
しかも話によると帰国子女で超が着くほどの可愛らしさらしい。
周りがざわざわとなり始める頃、市瀬が登校してきた。
辺りのざわめきには目もくれず自分の席について早速寝る体制に入っている。
その後始業のチャイムが鳴り、教師が現れた為、皆席に着き授業を開始した。

授業の終了とともに、ほとんどの生徒が教室から姿を消した。
皆、一度転校生を見たい、と出て行ってしまった。
残されたのは数人の生徒と愛莉と市瀬と千明だった。
暫く、千明と話していた愛莉はまた廊下が騒がしくなるのを感じた。
ざわめきは徐々に大きくなっており、確実にこちらに近付いてきている。
ガラリとドアが開いたかと思うと、そこには小学生くらいの身長の男の子が学ランを身に纏い、立っていた。
瞳はクリクリと大きく、ブロンドの髪はふわふわしていて綿菓子を連想させた。
そのふわふわの前髪を可愛らしく大きめの飾りの付いたゴムで縛っている。
天使が現れたのかと錯覚を覚えた。

「貴方がイブキアイリさん?」

こちらに近付いてきて、こて、と首を傾げる。
その仕草さえ可愛らしくて、取り巻きの生徒たちは歓声を上げた。

「ええと、あたしじゃなくて、この子」

訪ねられた千明は、愛莉の方を指さして答える。

「あ、ゴメンナサイ。貴方も凄く可愛くて!」
「いや……」

千明が言い淀んでいるうちに少年は愛莉の横に並んでにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「貴方がアイリ?」
「え、そう、だけど……」
「うわぁー!!!! 初めまして! ボク、キア・ヴェルアスって言います! やっぱりくろーの話と違うじゃない!」
「え?」

ぷんすかと怒りながら、斜め前の市瀬を睨み付けるキア。
愛莉は訳が解らず市瀬へと目をやる。

「センパイの可愛い基準は低いだろ」
「ムッ、そんな事ないもん!!」
「えっと……市瀬君の知り合い?」
「……そ、そいつ一個上のセンパイ」

面倒くさそうに市瀬は顎に手をやりながら言う。

「先輩??」
「そうだよ! ボクはアイリのセンパイ!!」
「あ、ごめんなさい私小学生くらいかと……」
「良かったな、これっぽっちも男として見られてなくて」
「ムッ!! くろーは一言多い!!!!」

二人のやりとりに呆気にとられた愛莉はそわそわと両者を見比べる。
市瀬はそれに気付いたのか口を開いた。

「俺の、遠い親戚だ」
「あ、そうなんだ」
「そう、ボクとくろーは小さい頃一緒に住んでたんだよー」
「え、じゃあ市瀬君も海外に居たの?」
「少しの間だけな、ロンドンは俺には合わなかった」
「くろー、和食が好きだもんね!」

そんなやりとりをしている内に
鈴が鳴り、キアは自分の教室へと戻っていった。
授業中、愛莉は気が気ではなかった。
クラスのほとんどがチラチラと愛莉を見てはこそこそと話していたからだ。
居心地の悪さを感じながら午前・午後の授業と乗り越えて、愛莉は帰路へ着いた。

玄関に入ると見覚えのある赤い草履が二足、綺麗に揃えられていた。
愛莉はその草履にピンと来たが、同時に胃の辺りに気持ち悪さを感じた。
こっそりと2階へ上がろうとしたが佳代に引き留められ、そのままリビングへと通された。
テレビ前のソファに礼儀正しく腰掛けた少女がこちらをキッと睨み付けている。

「椿ちゃんが遊びに来たのよ」
「こんにちは、愛莉姉さん」
「つ、椿ちゃん、こんにちは……」

この季節に相応しい、桔梗の花をあしらった着物に身を包んだ少女、烏丸椿は凛とした声で挨拶をした。
椿は愛莉の一つ年下で、一颯家の分家に当たる、烏丸家の長女だった。
一颯家はキリスト教だが、烏丸家は仏教を重んじている。
二人は従姉妹だった。
愛莉は早くこの場から立ち去りたい気分でいっぱいだった。
椿の自分に向ける憎しみが有り有りと見て取れたからだ。
昔からそうだった。
椿は愛莉に会うと、必ずその怒りを向けてきた。
直接的に何かする訳でもなく、ただ睨み付けられ、言葉の節々に刺々しさがある。
愛莉はそれが苦手なのだ。

「今日はゆっくりしていってね、椿ちゃん」

そんな愛莉の気持ちを知ってか知らずか、母親はそう椿に告げる。
椿も微笑み、有り難う御座います、と丁寧にお辞儀までして見せた。

「姉さん、私姉さんのお部屋でゆっくりお話がしたいんですけど……」
「えっと……でも、今散らかってて……」

椿が何か言おうとした時、リビングのドアが開かれた。
背広をぴっちりと身に纏い、オールバックに髪を流した誠志朗が入ってきた。

「もしかしたらと思ったら、椿来てたのか」
「誠志朗兄様!」

明らかに今までよりも高い声色に愛莉はげんなりとする。
この変わり様は何だろう。
椿は誠志朗に飛び付かんばかりの勢いで誠志朗の側へと駆け寄った。

「今日、此処に泊まらせて頂く事になったのよ」
「……帰れ」
「え……?」
「……迷惑かけるなよ。帰れ」
「私、別にそんなつもりじゃ……」

うっすらと涙を浮かべながら椿は言う。
誠志朗は聞く耳持たず、と言った感じで、背を向けて自分の部屋へと戻ってしまった。
椿はその場に立ち尽くしてしまう。佳代がやってきて、彼女を宥めた。

「大丈夫です。ごめんなさい」

小さくそう呟いて、椿は帰り支度を始める。
愛莉はその場から動けず、彼女がバッグに物をしまうのをぼんやりと見つめていた。
椿と目が合う。
彼女はギッと愛莉を睨み付ける。
その憎しみの眼差しに愛莉は足が竦んだ。
玄関で彼女を見送る。佳代に言われたからだった。
愛莉は何と声を掛けて良いのか解らずに黙り込む。
すると椿が口を開いた。

「どうして……どうして姉さんばかり……」
「椿ちゃ……」
「失礼します!」

大きな荷物を持って、カラカラと音を立てながら椿は帰って行った。
愛莉は動く事が出来ずにその場に佇む。
椿が角を曲がったその時、誰かに肩を叩かれた。

「……お兄ちゃん……」
「大丈夫だったか?」
「うん……」
「嫌な思いさせて悪かったな」
「お兄ちゃんは悪くないじゃない……」
「……そうか……?」
「そうだよ……」

きっと、椿は誠志朗の事が好きなのだろう、と愛莉は思っていた。
だから、一緒にいる自分が憎いのだろう、と……。

「戻るぞ」
「うん」









椿は肩を震わせていた。
どうして、あの女だけが良い思いをするのだ。
ナァナァと鳴きながらすり寄ってくる猫の存在すら気付かなかった。
だから、自分の背後に男が立っている事も気付かない。

「そんなに憎いなら、殺してしまおうよ」
「えっ……!?」

甘く、官能的な声が椿の耳元でそう囁いた。
太陽は沈み掛けていて、赤々とした風景が椿の双眸に映り込む。
男を振り向くが、逆光の所為でその影しか解らない。
猫はいつの間にかいなくなっていて、小さな公園に椿と男二人だけになる。

「どういう事……?」
「そのままの意味さ……」
「姉さんを……」

考えれば考える程ビリビリとした刺激が椿を支配して、上手く思考が定まらない。
答えを求めるかのように、とろんとした瞳で椿は男を見上げた。

「オレについておいで、そうすれば全て、上手くいくよ……」
「は、い……」

熱に魘されるように小さく呟く。
その言葉を聞いた男は満足そうに頷いた。
公園には、二人の男女の影が交わっていた…………。