狼涙 久狼編1話 「新しい生活」
愛莉は誠志朗の呼びかけに答える事をしなかった。
誠志朗は焦り、更に愛莉を呼ぶ。
しかし、愛莉はそれに否定を示すのだった。
「お兄ちゃん、私はそっちには行けない」
「何を……何を言ってるんだ! 早く戻って来い! そいつが何なのか……」
「聞いたよ! 椿ちゃんから、私の『血』の事も、『錆浅葱』の事も! 聞いたのっ」
「お前……」
「元凶は、私なんだ。だったら、自分で解決する。お兄ちゃんが危険な目にあう事ないっ」
「そういう事じゃないだろう!!」
一歩近づこうとして、けれどそれはキアによって阻止された。
誠志朗はその場から動く事が出来ずに歯を食いしばる。
「アイリがそう決めたんだ。だったらオレたちは大歓迎さ」
「……先輩……」
「それじゃ、『オニイチャン』、バイバイ!」
キアがそう言うと同時に、愛莉は物凄いスピードの中にいた。
状況が判断出来ず、キアを見つめる。
キアはにっこりと微笑んで、今の状況を簡単に説明し出した。
「あまり、景色を見ない方がいい。オレの顔だけを見てな」
「え……」
チラリと横目で周りの景色を見る。景色と言えるものは何もなかった。
ただ、沢山の色が、高速で流れている、それだけだ。
だが愛莉は吐き気を催して慌ててキアを見つめる。
「だから言ったのに……オレは今すっごーいスピードで走ってるの」
「え……」
「あー、話は後ね。とりあえず、オレたちの家に戻るから」
よくよく状況を把握すると、愛莉はキアに抱き抱えられる形だった。
急に恥ずかしくなり、キアの顔を見ることが出来ずにキュッと目を瞑る。
暫くすると、目的地に着いたのだろうキアがおろしてくれた。
「さぁ、オレたちの家へようこそ」
「お、お邪魔……します……」
キアに案内されて大きな門を潜る。
そこには、立派な洋館がドデンと聳え立っていた。
館内は以外にも明るくて、今まで暗い場所に居た愛莉にしてみればそこは眩しい程だった。
ある一室に案内される。
そこには、市瀬の姿があった。
「市瀬……君……」
「……何で、お前は俺たちを選んだ」
「え……?」
「俺たちはお前を狙ってる、なのにどうしてだ」
「……正直、ビックリしたし、怖かった。けど、市瀬君は、市瀬君でしょう?」
「……お前、どこまでお人好しなんだよっ」
ドンッと壁を叩きつける。
先ほどのような恐怖はなかったが、それでも愛莉はビクリと肩を震わせた。
市瀬の形相は険しく、それは苛立ちを示している。
「俺はっ! お前を殺そうとしたんだぞ! 次もまた殺すかもしれないんだぞ!!」
「……くろー、落ち着いて」
「うるさい!」
キアの宥めを無視して、市瀬は捲くし立てる。
愛莉はそれを聞き終えると、ゆっくりと口を開いた。
「その時は、仕方ないよ」
困った様ににこりと微笑んで、愛莉は静かにそう言った。
キアと市瀬は驚いて言葉を失う。
本当に、この少女はどこまでお人好しなのだろう。
その一言で、市瀬はもう口を開く事はなかった。
時計に目をやると時刻は、午前1時を回っている。
急激に疲労を感じて、愛莉は欠伸を噛殺した。
「もう、こんな時間か……」
「アイリはこの部屋を使って。……大丈夫だよ、寝込みを襲おうなんてそんな野蛮な事、ボクもくろーも考えちゃいないから」
ふふっと笑ってキアはそう告げた。
答えられずに愛莉が口をパクパクさせている間に、キアはスルリと部屋から出て行った。
残った市瀬は気まずそうに口を開く。
「まさか、こんな事になるなんて予想してなかったから俺もあいつも驚いてるんだ」
「あの、ところでキア先輩のあの姿は……」
「あぁ……あれが本来のあいつの姿だ」
「そうなの?」
「……お前に近づく為に、学校ではあの格好になってたんだ。あっちの方が警戒心が薄れるってな」
「確かに……」
警戒心のけの字もなかった。
自分の鈍感さに溜め息が出そうになるが、ぐっと堪える。
話に夢中になっていた為、まだ部屋をよく確認していなかった。
愛莉はぐるりと辺りを見渡す。
部屋には大きなベッド以外家具はなかった。
壁に備え付けられている蝋燭がジリジリと音を立てて溶けていく。
「部屋は適当に使え。それから……」
「何?」
「……夜、センパイの部屋には近づかない方がいい」
「え、どういう事……?」
「そのうち解るさ」
そう言って、市瀬は部屋から出て行った。
靴を履いたままなので、カツカツと足音がよりいっそう、廊下に木霊している。
愛莉は一息ついて、これからの事を思った。
「お兄ちゃん、ビックリしてるよね……」
呟くが、愛莉には自分の家に帰るという選択肢は考えられなかった。
兄と敵対してでも、市瀬を殺させたりしない、今はそんな思いが少女を支配している。
ベッドへと身を沈め、愛莉はそのまま目を閉じた。
今日は本当に沢山の事が起こったな、と頭の隅で思ったが、直ぐに愛莉は暗闇へと落ちていった。
次の日、愛莉は微かに聞こえる話し声で目を覚ました。
ドアの外で何やら話し声が聞こえる。
ベッドから起き上がり、制服に袖をとおした。
そこで、ふと考える。
自分は昨日、市瀬たちの家に上がり込んだ。
そして、その時点で私服を着ていた筈。
では、何故此処に制服があるのだろう…………。
バンッと勢いよくドアが開かれて、躓きそうになりながら市瀬が部屋に入ってきた。
「市瀬君? おはよう」
「え、あ……お、おぅ……」
バツが悪そうに、目を逸らして市瀬は愛莉に返事をする。
「ところで、この制服ってどうしたの?」
自分が着終えた制服を指差しつつ、愛莉は市瀬に尋ねる。
複雑そうな表情で市瀬は答えた。
「今朝、椿が来たんだよ」
「椿ちゃん?」
「そう。あいつは、此処の事知ってるし、まぁ俺たちの仲間みたいなもんだったし……」
「仲間?」
「あいつは、センパイと『契約』したんだ」
「……契約?」
パチクリと双眸を瞬かせ、愛莉は市瀬の答えを待つ。
「ストップー! それはプライバシーの侵害だよ!!」
制服に身を包んだキアが部屋へと入ってくる。
しかし、その容姿は愛莉がいつも学校で見ていたキアのものだった。
拍子抜けして、愛莉はキアに問いかける。
「先輩、その格好は……?」
「だって、急にボクが大きくなったら皆ビックリしちゃうでしょ?」
そんな風に言ってのけた。
確かに、と思う反面皆は知らない事実を知ったその重大さに胃がキリキリと痛むのを感じる。
「じゃ、ボクは部活行って来るけど、くろー愛莉に変な事しちゃダメだよ!」
「しませんよ……」
うんざりしたように市瀬は言う。
キアを見送った後、二人は部屋へと戻ってきた。
これからどうすればいいのか話し合わなければならなかったからだ。
先に口を開いたのは市瀬の方だった。
「一颯、本当に俺たちの仲間になるのか?」
「うん、もう決めた事だから……お兄ちゃんが市瀬君の事を殺そうとするなら、私は市瀬君を守るよ」
「……なんで俺にそこまでする?」
「……どうしてだろう。でもね、守らなきゃいけないって思ったの。物凄く強く思ったから、絶対そうしなきゃいけないんだって……」
「お前に何が出来る? 向こうは銃を持ってるんだぞ」
「それは……っ」
「俺は、あの姿になると、自分を保つのが難しい。お前にも怪我させるかもしれない……」
「……っ」
昨日の光景が脳裏に蘇った。
愛莉は自分の胸元を手で押さえつける。
傷がズキリと痛んだように感じた。
やはり、まだ怖さは消えない。
「市瀬君は……どうして人を襲うの?」
「……腹が、減るんだよ……」
「え……?」
「人間だって同じだろ。腹が減ったら家畜や魚を殺す……。俺は、それと同じだ」
「それは……」
「俺は、人間じゃないんだ。化物なんだよ。……一颯、それを忘れるな。俺は、いつでもお前を殺せる」
「っ……」
市瀬の瞳が一瞬ギラリと光ったように見えて、愛莉は息を呑んだ。
言い終えると、市瀬は部屋を出て行く。
一人になった愛莉はようやくピンと伸ばしていた背筋から力を抜いた。
背中はじわりと汗ばんでいる。
一つため息を吐き出し、そういえばまだ何も食べていない事を思い出す。
「私たちと一緒、か……」
確かに空腹は訪れる。
現に愛莉も小さめだがきゅるきゅると腹の虫が鳴っていた。
それと同じだと市瀬は言う。
そうだな、と愛莉は納得せざるを得なかった。
廊下は、朝なのに薄暗い。
廊下だけ、というよりはこの洋館全体が薄暗かった。
一人で歩いていて不安を感じるには十分の雰囲気をかもし出している。
やはり、壁に蝋燭があり、それがジリジリと音を立てていた。
愛莉はこの洋館を探索している最中だ。
これからほとんど此処で生活するのだからせめてどこに何があるのかは把握しておきたいと思ったのだ。
自分に宛がわれた部屋から左に行くと、部屋が2部屋あった。
どちらとも、あまり使われていない様でホコリの匂いが充満していた。
その先は行き止まりだったので、仕方なく右方向へと方向転換をしたのだった。
少し歩くと、また幾つか部屋があり、その中の一つが市瀬の自室のようだ。
ノックをすると、市瀬の声が聞こえてきた。
「どうした?」
「このお家大きいから探索してるの」
「そうか、俺かセンパイに聞けばざっと教えてやるぞ?」
「うーん……自分で確かめる方が好きなんだよね。色々発見出来るし」
「頑張れよ」
一瞬だけ笑顔を作る。
その、整った顔がやんわりと緩められるとなんだか別人のような気がして愛莉はドキリとした。
「ありがと。市瀬君は食事は?」
「もうそんな時間か?」
「まだだけど、私昨日から何も食べてないんだよね」
先程した会話を思い出してしまうが、市瀬は気にする素振りが見られなかったので愛莉はそのまま続ける。
二人して廊下に出た。
市瀬を先頭にして、愛莉は後を追う。
更に右方向に進むとエントランスが現れ、いくつかのドアの中から一番近い位置のドアを開けた。
そこは食堂だった。
二人で住んでいるにしてはやけに広々としたその空間に愛莉は言葉を失ってしまう。
「何か食べたいものは?」
「あ、軽めならなんでも……」
それを聞いて、市瀬は奥のキッチンらしき個室へと入っていった。
まさかと思い後を追うと、袖を捲し上げるところだった。
「もしかして、市瀬君が料理するの?」
「あぁ……センパイは食べる専門だ」
「へぇ……」
意外すぎて、唖然とする愛莉をよそに、市瀬はテキパキと朝食の準備をする。
自分の出る幕が全くないと悟った愛莉は食堂に戻り、席について市瀬を待つ事にした。
薄暗い室内は朝とは思えなくて少し気分が滅入る。
けれど、キッチンから聞こえるジュウジュウという音を聞いていると少し安心出来た。
暫くして、レストランのウエイター張りの皿を手にした市瀬がやってくる。
「そ、そんなにたくさん持って大丈夫?」
「あぁ、慣れてるから」
そう言いながら、愛莉の前に皿を並べていく。
新鮮なサラダと、スクランブルエッグ、ソーセージ。
バスケットの中にはクロワッサンがカゴから溢れんばかりに盛られている。
それに加え、色とりどりのジュースが置かれた。
「わぁ……市瀬君って料理上手なんだね-!」
「必要だから覚えただけだ。……食うぞ」
「うん! いただきまーす!!」
一口、サラダを口に運ぶ。
味わった事のない、ドレッシングに愛莉は頬が緩むのを感じた。
「すっごいおいしい! このドレッシング何?」
「作ってみた」
「わーっ凄いよ市瀬君!」
「そんな事ない、さっさと食え」
「うん」
食事を終えて、市瀬は食器を洗いに行こうとしたが、愛莉が強引に市瀬を部屋に戻した。
作って貰ったのだからこれくらいはしないと、と山盛りになった食器を前に愛莉は意気込んで洗いに掛かる。
洗っていて、ふと両親や兄の事を思い出した。
自分の事を心配しているんじゃないだろうか……。
けれど、椿が制服を持ってきてくれたと言う事は彼女が上手く誤魔化してくれたのだろう。
食器を洗い終えて、自分に宛がわれた部屋に戻る。
途中、先程はなかったであろう、大きな赤い扉を発見した。
「? なんだろう……」
愛莉はその扉に近付く。
他の物とは違う雰囲気に、愛莉は引き寄せられる。
その扉の取っ手に手を掛けた。